熱く楽しく挑戦する!

分子神経科学研究者、兼、麻酔科医、兼、ランナー、兼、作曲家 の随想録(ひとりごと)です。

職業的政治家は必要ない

 2017年10月現在、日本の政界は空前の大変革、危機、異常事態を迎えています。それはまるで、1600年の天下分け目の大戦、関ヶ原の戦いの直前のようなもの。諸国大名は、よほどの国力や大義をもたぬ限り、「石田につくか、徳川につくか」という命題に迫られ、右往左往していました。特に、これまで政権時代の失策と衰退、分裂、そして合流を繰り返すことによって、野党第一党という地位と信頼を完全に失った民進党の情勢には、醜態にすぎて直視することができない状態となっています。
 民進党のわりと偉いポジションの者が、記者会見で次のようなことを話していました、確か、小池百合子東京都知事が代表を兼務する希望の党による、民進党議員の公認を確約するための折衝を前にしてのものであったと思います。「議員にも生活があるわけですから、しっかりと全員の公認を取り付けられるよう取り組んで参ります」といったような発言でした。
 …??議員の生活と、希望の党の公認とに、何の因果関係があるのか?そもそも、希望の党の公認がもらえなければ、民進党として出馬すればよいのでは?それはつまり、民進党として出馬しても勝ち目がない、とすでに確信しているからでは?自分が政治信念をもってその党に所属しているはずの議員が、なんとその主義や大義がすでに国民にとって廃れており信任されないことを自覚しているということと、明日の自分の生活のために「ちょっと政治信念が似ている政党からなんとかして公認をもらって、食いつなごう」という姿勢でいることが、私にとってはとても奇妙であり、情けなくもあり、滑稽にも思えてなりませんでした。
 国会議員とは、自らの人生や生活をある程度犠牲にして、まさに公僕として国家運営のために死力を尽くす、スペインの哲学者オルテガが定義した「エリート」そのものであると私は今でも信じておりますし、実際にそのように活動している先輩を存じ上げています。しかし、上記のごとき発言を聞いてしまうと、「いやいや、議員だって自分の生活がありますから」といった言い訳がましい姿勢が垣間見えてしまい、これぞ職業的政治家の典型です。確かに、政治家も選挙で当選できなければただの無職の人となってしまい、明日からの生活は相当厳しいのでしょう、いったいどのような職で食いつなぐのかはわかりません。しかし、国民にキャッチーかつトレンディーな政党の公認をもらわなければ当選確率が下がるから、という理由で、自らの政治信念からずれるけど少しだけ似ている政党にすり寄ってしまう姿勢は、国民が望む政治家の姿からはほど遠いものです。そもそも、政治信念というのは、マズローが定義するように人間が抱く欲求段階において相当に高次のものである自己実現に近いところにあります。なぜなら政治信念に絶対的な正解など存在せず、「何がもっとも最適となる解であるのかを探し求め続けること」のみが重要なものだからです。この高次の欲求は、当然最も低い欲求である生存や安全が完全に保証されていなければおよそ到達しえないものでしょう。にもかかわらず、さきほどの民進党議員の姿勢では、高次の欲求を満たすふりをしておきながら、実は生存や安全を獲得するための活動として選挙を捉えていると思わざるを得ません。よく選挙活動でみられる、「$$$$$, この選挙戦を必死に戦って参ります」と街宣車が走り回る光景、ここには、「(国民の皆様の生活をよりよいものにするために、自らの人生を賭して)必死に戦って参ります」というロジックであると我々有権者は暗黙の了解で理解しているからこそ、応援しようと思えるのです。しかし、「(この選挙戦に落選したらご飯が食べていけないので)必死に戦って参ります」というロジックであったと仮にするならば、誰がこの候補者を応援するのでしょう?私でしたら、「知らねーよ」と言い返すでしょう、まあ就活中の学生さんには「頑張れ!応援してるぞ!」となりますが。候補者の明日の生活のために選挙戦を行うのであれば、はっきりいってその方々は必要ではありません。エリートのわきまえを失った国会議員など、インターネット上で行う国民全体による直接選挙で十分です、彼らの賃金や政党助成金などを省くことができれば多くの財源確保ともなります。
 エリートを失った国会議員は職業的政治家に陥ることは不可避です。一方、手に職を持ち、例え零細であろうとも生活の基盤を確保できる政治家はそのような愚かな状態になる可能性は低くなります、もちろん利権や社会的地位などが絡んでこなければの話ですが。学問の世界においても全く同じことが言えると思いますが、金銭、利権、地位などが関わらない状態でのみ、学者も政治家も純粋な高みを目指すことができるのでしょう。他人事と考えずに、自分への戒めとして、今回の民進党議員の姿勢を捉えてみたいと思いました。

小人閑居して不善を為す

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170912-00000088-jij-soci

小人閑居して不善を為す。
徳のない小さい者は、人目に付かない狭いところにいると悪事をしでかす、ということばです。
大学の研究室など、社会から隔てられた非常に狭い世界。そこで、教授というポジションは、言ってみれば「国王」。学位であったり、
来年の就職先のことなど、その「王権」によっていとも簡単にどうとでもなされてしまいます。近年は、パワハラやらセクハラやらに
対する世間の目が厳しくなったこともあって、大学などの機関にはコンプライアンス委員会や内部告発推進のための取り組みが
されてきているようですが、残念ながら組織なんて簡単には変わりません。ましてや、公立大学などいうもさらなり。

 この記事で被害にあった学生がどのような人となりであったのかは分かりません、もしかしたら厳しい指導が必要となる
要素があったのかもしれない。しかし、この類の記事が多々散見されることの嘆かわしさときたら、本当に残念でなりません。
明日の日本を担う、そして将来の大いなる可能性に賭けて胸をときめかせて研究室に来たはずの学生さんが、昔取った杵柄によって
教授の地位を獲得し、その地位に甘んじて何らかの勘違いに陥り「国王」となってしまう。民主主義を働かせないばかりか、ろくに
組織のマネジメントを学んで来なかったがために、ただの専政を敷いて満足する。少しでもはみ出す者や気にくわない学生に
対して、格好の弱者だと攻撃を開始する。攻撃をせずに、気に入らないから放置するという「ネグレクト」という戦術もあります、断じて許せない行為です。

 結局は学位やら就職やらを握られている以上、被害にあった学生がひとりで内部告発などの行動を実行することは極めて
高いハードルでありましょう。ちなみに、私も医学部での病院実習中に、欠席していた同じグループメンバーに翌日の実習に
関する変更点を携帯電話でメールしていたら(実習に関することですが、一応すみのほうでメールを打っていました)、
突然後ろから殴られ、さすがに多数の不平不満があったためにらみをきかせた私に対して、「お前の実習の評価なんて、
俺の手で簡単にどうとでもできるんだぞ」と言い放った教員を知っています。実際に殴り返すか、何らかの形で告発するか、
真剣に考える時期もありました、この場で所属と名前を公表することもできますが。しかし、やはり実習の単位であったり、
その後の実習先で友達や先生方に迷惑をかけることになるだろうし、もっともここで彼と同じレベルの行動しか取れないようで
あれば、超反面教師である彼くらいのレベルにおさまってしまうであろうと考え、結局は仲の良い友達に愚痴を聞いてもらうことに
とどめました。

 繰り返して言いますが、徳のない小さい教員の皆さんは、どうかいち早く退職してください。究極の弱い者いじめは
厳罰に処さるるべし。若い先生方でも優秀で大志を抱く者はたくさんいます、昔取った杵柄で今の職に甘んじている
先生方は、もう無用の長物です、速やかにそのポジションを後身のために空けて下さい。アカデミックポジションは、
地位と名声と食い扶持のためにあるのではありません、夢を実現させるために挑戦するところであり、その夢の
大切さを若者に伝えて夢を与えるための場所です。

100%安全は実現できない

 以前、テレビのニュースで有名な芸能人が無邪気にこのようなコメントをしていました。
「安全というのは、より安全というのではダメだ。100%安全でなければダメだと思う」
会場からは、いかにももっともだ、と言わんばかりの拍手喝采が起きていました。

 日常から、安全性を追求している仕事に従事する私からすれば、これほど一般の人々と
感覚のズレがあるものか、と痛感しました。

 安全学の祖であるジェームズ・リーズンの有名な言葉、「To err is human, 人は間違うものだ」。
人が関わる以上、どれほどの努力を徹底したとしても、100%安全は達成できない、これは絶対的な真理です。
100%というのは、極めて厳しい安全基準です。日本のお産の安全性は本当に優れていますが、妊婦さん10万人あたり
2.6人(2014)です。OECD各国ではダントツ1位です。この値を、安全と捉えるか危険と捉えるか?
 私は日々、産婦人科の先生方や産婦人科病棟の看護師さんや助産師さんの献身的な働きぶりを
目の当たりにしているため、この値がいかに大変な努力から紡ぎ出されたものであるかをよく知っているつもりです。
ですが、ざっくりいえば、10万人のうち2-3人の妊婦さんは、大変残念ながら亡くなるということです。つまり、
100%の安全性は保たれていません。
 ですが、この現実を、「安全は100%でなければダメだ」などと、公言することが本当に可能なのでしょうか?
現場を知らずに安全性について簡単に考えることは、あまりに短絡的であり、今一度安全性と効率性とのトレードオフの関係
について考える必要があります。
 安全を保つためには、膨大なコストがかかります。例えば、高速道路の安全性を100%に近いほどに保つためには、
1日に各道路に1台しか走らせない、とか、手術であれば1日に患者さんは1人しか行わない、とかということです。
もちろん、現実の日本でそのようなことを行うことは不可能な話です。ですから、ある程度の効率性と安全性のバランスを
同時に保った上で、現場の人々は最大限の注意と努力をもって両方を100%達成することを夢見て仕事しています。

 これだけは言えます。100%の安全性を達成することはできません。もしできるとすれば、「その仕事をしない」という状態においてのみです。
手術はしない、新幹線は走らせない、高速道路は走らせない、救助隊は雪山に出動しない。この100%の安全性を保った
社会に、本当にあなたは暮らしたいと思いますか?

政治家はプロにならねば存続できない

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170818/k10011103991000.html 

以前、堀江貴文がテレビで話していたのはこんな感じの内容。
「これまでは全員参加型の直接民主制は、現代社会では実現不可能だった。だからこそ、
国民から選ばれた代議士による間接民主制が行われていた。ところが、インターネットや
スマートフォンが普及した現代にあっては、もはや全国民による直接民主制が可能な
時代が来ている。となると、もう代議士=政治家は必要ないんじゃないか。」
ただし、堀江は、民主主義を必ずしも肯定しているようではなかったようですが。

 考えてもみなかったことでしたが、当意即妙、確かにその通りかもしれない。
あくまで、全国民が合理的で倫理的であることが大前提となる議論ではあるけれど、
技術的には全国民が参加する投票や議論に基づく政治体制はもはや可能ではある。
さらに、大義のみならず実力にもまったく信頼をおくことのできない野党第一党
依然として存在し、閣僚が新たに就任したかと思えば期待を裏切る発現や態度、
国会では見せない本性が腹心である秘書に暴かれる女性議員、さらに昔取った杵柄を
寝床にして当選した新人議員があっさりと足をすくわれてしまう、現在のおぼつかなき日本の政治。
かれら代議士が、一般大衆からランダムに抽出した日本国民よりも圧倒的に立派な論理性と倫理観を
有している、ということが統計的に是とされるのかどうかも、もはや疑わしく思えてしまいます。

となると、政治家はひとりひとり、プロフェッショナルとしての「政治家力」を持って
比較優位性、独自性を有していなければ、もはや政治家としての生業、職業を失うことは
やむを得ないのかもしれません。さらに、通常の常識的な感覚からすれば、会社員の平均年収の
数倍の年収をもらっている限り、その政治家力にはそれ相応の価値が認められなければ、
国民からの批判を免れることはできないと思われます。

近年は、失言を取り締まる監視のような風潮がはびこっていて、政治家の方々もよほどの
弁論術やレトリックを普段から鍛えておかなければ自分の立場が危うい状況となっておりましょう。
しかし、権力を持った公僕であることを自ら望んだ政治家の皆さんは、こうした厳しい状況でも
高いパフォーマンスを求められているのです。逆に言えば、これまでが彼らのごとき「権威」に
対する監視が不十分であったのかもしれません。

 かつて大学時代に、一緒に懸垂逆上がりやTバッティングをやっていた井出さんが民進党
代表選に出馬しました。個人的には、大義も実力もない民進党には完全に信頼を持てておりませんが、
井出さんのような気鋭の若手議員が変革に取り組んでくださることを心から願いたいと思います。

肩書きや資格では偉くならない

 久々に、琴線に触れる記事を目にしました。

http://toyokeizai.net/articles/-/183646

 日本古来の美しき儒教精神のなかに、「父母、目上の者(上司)、年長者を敬いなさい」という考え方は
依然としてあるはずですし、あるべきだとも思います。しかし、一方で、「子ども、目下の者(部下)、年下の者には
敬意をもたなくてよい、軽んじてもよい」と唱えているとは到底考えられません。

 日本の人間関係には敬語という、独特で美しい言語体系が存在するがために、上と下の関係性がはっきりと意識出される
特徴があります。仁義礼智を踏まえた者同士であれば、おそらくこの世でもっとも美しく潔い関係となるのでしょうが、
いかんせん現代人など小人の集まりに過ぎない。ひとたび相手から礼儀と敬語をもって迎えられたならば、それを
よしと逆手に取って「つけあがる」状態になってしまう、そのようなケースが横行しているように見受けられます。

 あらゆる人間関係において、ひとはその相手を必ず見ています、そして評価しています。「信用できる人なのか?」、「優秀な人なのか?」「自分でリスクをとれる人なのか?責任感があるのか?」などなど。これが、たとえ部長であろうと、課長であろうと、係長であろうと、または平であろうと、新入社員であろうと。教授であろうと、准教授であろうと、助教であろうと、指導診療医であろうと、そして研修医であろうと。

 この、江口克彦さんのいうように、その人に対する評価というのは、役職やポジションに対してでは決してない。これまでの業績と、現在の仕事っぷりや情熱、そして一緒に仕事をしたいと思うかどうかを感じさせる「人となり」そのものです。確かに、これまでの努力の積み重ねがあったからこそ、現在の役職に就任することができたのかもしれない、そのことを誇りにすること自体はまったく否定されるべきものではありません。

 しかし、過去の業績という栄光の記録にしがみついて、現在の役職に甘んじている上司など、部下からすれば一発で見抜けてしまうものです。それは、現在の姿をみていれば明らかなもの。どれだけ本人が体裁を整えてかっこよく見せることができていたとしても、残念ながらそんなものはしばらく付き合っていれば簡単に見破られてしまいます。さらに、この上司が自分の役職をかさにしてものを言っているのか、それとも、ひとりの人間として、相手を尊重した上でものを言っているのか、これも残念ながら下の者には簡単に見抜かれています。私の尊敬する先生方は、誰一人として相手を軽んじるような態度はおとりになりません。どんな目下の者が相手であったとしても、同じひとりの人間として守るべき「人としての道」があるはずです。

 「いやー上司ともなると仕事が多くなって大変なんだよ」と、そうおっしゃりたくもなりましょう。しかし、先ほども述べたように、私は心から尊敬すべき先生方を存じ上げています。朝一番に職場に到着して我々若手の仕事をすべて把握しながら、我々のトレーニングのために裁量を許してくださり、不備があれば厳しく叱ってくれ、そしてピンチの際には最前線で力を貸してくれる。そんな素晴らしい上司の先生がいらっしゃいます。

 「能力をもった者には、それを正しく行使する責務がある。」ドラマ「白い巨塔」に登場した一節です。能力があるからこそ誰かに選ばれてその役職に就任されたのです。その役職を自らのプレゼンテーションに行使するのではなく、あくまで社会のなかであてがわれたひとつの役割に報いるというスタンスで、いっそのこと仕事されてはいかがでしょうか?

 そんなことを、将来の自分に対してもここで厳しく戒めておきたいと思います。

随想@有楽町でのコンサート

随想@有楽町でのコンサート
指定席であるにも関わらず、開場前から約1キロの長蛇の列。え、指定なんだし意味なくない?と思い、絶対に行列には並ぶまいと有楽町界隈をぶらつく。以前あった高層ビルが取り壊され、新たなタワーが建設されつつある光景をみて、この丸の内は見果てぬ完成形を求めて人々の欲は今なお高ぶり続けているのか、などとひとりつぶやく。
さて30分も経過したろうか、そろそろ行列は解消されているかな、と思いきや、さきほどよりもむしろ行列の尾は再生されている!なんという恐ろしい人気であろう。というより、開演までに観客は会場内に収まりきるのか?誘導を担う業者に不備があるんじゃないか?などと思いつつ、開演10分前にだいぶ解消した少しの行列に続いて入場。ただ、自分の後ろにも行列は続いていたし、案の定入場の遅れのためであろう、開演は15分ほど遅れた。誘導業者よ、これが災害時の避難であったならば、なんと責任をとるのか。この開場でのコンサートなどこれまで何度も経験しているんだろうから、開場時間を早めるとか受付の窓口を増やすとか、もっと対応策はあるだろうに。「これは災害ではなくて、興業ですからー」とかいいわけしたら、本気でお相手しますぜ。興業とはいえ、あなたがたはプロとして生命を賭して仕事していないのかい?そのくせ、医療の現場で100万分の1の確率で合併症が起きたときにでもかみつくくせに。医療現場の人々は、少なくともそんなメンタリティで仕事していませんぜ。
さて入場してみると、観客、ほぼ99.5%が女性。。男性といえば、年配の奥さんに連れられて参加している方々ばかり。うちの母親も含めて、多くの女性にときめきのきっかけを与えているのだろう。
開演直前のアナウンス、「開演中は非常口の緑のランプも消灯させていただきます」。…大丈夫か?映画館は普通点灯したままだよなあ、万が一災害が発生したとき、緑ランプを再点灯させそびれたりしたらどうなるんだろう?それこそ大問題にならないのか?ワイドショーの格好の対象となるかもしれない。さっきの誘導業者の腕と気概では、きっとスムーズな避難などできそうにない。とはいえ、こういう「万が一…」などという考え方をしている人など、恐らく自分を除いたらほとんどいないだろうけど。。
前置きはいろいろあったが、いよいよコンサートの開演。コンサートというのは本当に素晴らしい、演者の生の息づかいや声、温度のようなものが直に伝わってくる。英語の歌詞が多くてあまり理解できなかったけど、とにかく本人の魅力や心の機微には強く心を打たれるものがあった。レーザー光線が飛び交うたびに、あれは488、あれは594、DAPIの647もあるぞ、Cy3かCy5のマゼンダもみられる、などと理系あるあるの反応をしてしまう。そうそう、488と594のマージはイエロー。
とにかく、彼と同じ36年間を生きた人間として、大いに考えるものがあった。自分も決して怠けてきた人生ではない、置かれた状況のなかで必死にやるべきことは何かを考えながら、やるべきことを積み上げてきたつもりだ。きっと、彼とて同じだろう、しかし、彼の姿からはこれまで経験してきた無数の苦労と努力の跡がとても強く感じられ、私が経験したそれらをはるかに超えたところになるように思えた。私にはもっとできることがあったのかもしれない、どうしたらもっとできていたのだろうか。不覚にも(?)1日足らずのうちにかなりのファンになってしまった。同世代であることに誇りを感じながら、これからも応援していきたいし、自分の励みとしたい。そういえば、彼は私が愛する福島県の出身。いつか、会津の風雅堂にもライブに来てもらいたい。

医者は労働者なのか?

 「ブラック企業」という言葉がワイドショーを賑わせ、さらに一流企業の優秀な新入社員がわずか入社一年足らずで、過酷な労働に追い詰められて自殺するという大変痛ましい事件が起こった、近年の日本。政府も緊急的に経団連などに働きかけて「働き方改革」を打ち出し、連続勤務時間の制限や、勤務の間の休息時間(インターバル)の確保、さらに最終週の金曜日は午後3時で退社を目指し、勤務後の余暇を充実させるという取り組み(プレミアムフライデー)などが少しずつ実施されてきています。
 少し話は逸れますが、私の尊敬する西堀榮三郎さん(技術者、科学者、冒険家にして、日本初の南極越冬を成功させた)の言葉に、「肉体的な疲労は、精神的な構えひとつでどうにでもなる(人生は探検なり)」というものがあります。実際、53歳で南極越冬隊を率いたり、70歳にしてヒマラヤ遠征の隊長となり登頂を果たし、80代になっても自ら私費を投じて船を建造し南極と北極をつなぐ航路を縦断するという計画まで立てていました。また、もうひとりの好きな研究者に、血圧を調節する重要な分子であるレニンという物質を発見した、西村和雄さんの著書「生命の暗号」のなかには、「本当に心から好きなものに取り組んでいるうちは、たとえ48時間ぶっ通しであったとしてもまったく苦にならない」といったような言葉があったと記憶しています。実際に、これらの方々は、復興途上でろくに食料も飲物もままならない状況のなかで、懸命に努力を積み重ねて確かな業績を成し遂げていらしただけに、彼らの言葉には大変重いものを感じますし説得力を感じます。ですから、個人的な意見として、現代でよく取りざたされる「過剰労働」というのは、実は勤務時間の長さであったり仕事のきつさであったりすることが問題の本質ではないのかもしれないと思います。むしろ、仕事をする環境、特に上司や同僚がどのようにコミュニケーションを取り合ってお互いの労苦と努力を分かち合ったり叱咤激励しあうことができているか、そういった人間同士としての働きかけが変性してきてしまったのかもしれません。

 さて、先ほど述べた「働き方改革」と聞いて、医療業界で仕事をする私としてはまっさきに思いました、「医療業界はどうなのか?」と。「働き方改革」といいながら、医師や看護師をはじめとする医療業界でもこの議論は当然巻き起こるはずだろう、そうでなければ医療業界だけは置き去りにされ、あたかも「お前らは人を助ける立場なんだから、これまで通りそうやって人のために自己を犠牲にして働け」とでも言われているかのようです。そんななか、先日、政府主導の「働き方改革実行計画」を受けて日本医師会の会長が述べた、「医師は労働者ということは違和感があるという声をたくさん聞いた」という言葉には考えさせられるものがありました。
 私は常勤医師として4年間、病院に勤めました。立場的には研修医でしたので、どうしても「研修させていただく身分、教わる立場」というスタンスではありましたが、ざっくりいえば病院に雇われている労働者そのものだったと思います。しかも、研修医という立場上、「残業代ください」とか、「当直手当をください」と声高に言える雰囲気ではありませんでした、まさに旧態依然たる医療業界の独特な空気でしたが。ただ、どちらかといえば緊急手術や急患に対応する仕事であったため、緊急事態の経験を多く積んで実力を伸ばしたいと考えていた自分は、むしろ緊急の対応により残業が増えることはありがたいことだと思っていましたし、残業代が欲しいと思うこともありませんでした。そういう意味では、自分のなかでも「医師=権利意識にとらわれた労働者」という意識はあまり強くなく、まあほどほどの待遇があればいいかな、くらいの感覚で仕事をしていました。
 おそらく、世間一般の方々が医師に期待するところは、いわゆる聖職者に近い立場としての医師なのかもしれません。神父、教師、医師といった存在、だからこそ「先生」という尊称で人々は呼ぶのでしょう。だからこそ、1日フルで勤務時間を終えた後、「その日のうちに放置しておいたら生命に関わる重大な危険が及ぶかもしれない病気のみを診療する」という名目で24時間営業している救急外来でろくに眠ることも許されないのに多くの患者を診療した翌日も、ちゃんとした休息なしで外来やら病棟業務やら手術やらをこなさなければならない、このような明らかに異常な勤務形態がどこの病院でもまかり通っている、というよりも、「医者なら当然でしょう」というくらいの勢いで期待されているのだと思います。病院における当直業務とは、労働基準法においては、簡単にいえば「一応緊急のために勤務させる業態ではあるけど、基本的にほとんど仕事があるわけじゃないから、翌日仕事させても大丈夫でしょ?」くらいの認識によって例外的に認められている業務です。しかし、その実態は上記の通り、3日前からの風邪症状だったり、インフルエンザかもしれないから念のため検査を受けたい、だとか、ひどいときには日中の外来には仕事でいけないから薬をもらいにきた、と当然の権利のごとく受診する患者など、主旨に反する多くの患者を診療している、そして病院に勤務する者なら誰でもこの現状を知っているはずです。しかし、その実態を知りながらも放置し続けてきた病院の経営者、そして厚生労働省の役人達がいたのです。そう、「医師は労働者じゃない、聖職者なら当然でしょう」という信念が根底にあるからでしょう。確かに、当直医を翌日完全に休ませることができる人的余裕のある病院はほとんどないでしょうし、その分の医師を補充するとすれば病院経営を圧迫してしまう。法的な規制を強めることも、医師不足の地域ではおそらく医療崩壊が生じるかもしれないほどの、現実的に不可能に近いものなのかもしれませんが、このまま過労に病んでいく医療者が放置されるのは明らかに理不尽だと思います。
 そして、一方では、医師が医療訴訟などで被告となった際に議論される、「債務不履行」という言葉。業務のなかで、現状の医療水準に照らして本来期待されるはずの医療行為が果たされない、ということですが、これはまさしく労働者を扱う際に使用される概念です。もともと、古代ギリシャの医療の父と呼ばれるヒポクラテスの時代では、医師は患者の心情を慮って、敢えて真実を伝えずに患者のためによかれと信じることを独断で行うことが善とされていました、これをパターナリズムと言います。聖職者に近い医師という意味では、むしろこのパターナリズムのほうがふさわしいように思われます。しかし、現在においては、医師が患者の心情を慮って真実を隠しながら独断で医療行為を行うことはむしろ悪であり、その状況において何らかの合併症や患者の経過の悪化があったときには、「十分な説明もなく勝手な医療行為を行った、これは債務不履行である」として敗訴のリスクとなります。現在では、患者やその家族に患者の病状と、それに対する治療方針や予後についての十分な説明を行ったうえで(インフォームド・コンセント)、患者が自ら治療方針を決定する、というプロセスが是とされています。この意味では、医師は労働者として、顧客である患者と契約関係を結ぶという状態になっていると言ってよいでしょう。
 つまり、医師の労働環境においては「医師は労働者ではない」というように考えられる一方で、医療行為を行う上では「医師は労働者としてきちんとした契約関係を結べ」と、二枚舌をもって扱われているのです。これはひいき目をやめたとしても、医師にとってあまりに過酷な状況です。確かに、社会において医師には大きな責務を期待されていることは間違いありません、医師は私利私欲のために働くのではなく、社会インフラの一部分を担う存在として世間に奉仕することが望まれているのだと思います。しかし、もしそうであるならば、患者と同じ人間である医師が健康で充実した生活をすることで継続してよりよい医療を提供することを可能にするために、医師をはじめとする医療者の労働環境を社会全体で見直す必要があるのではないでしょうか。救急外来の利用についても、真剣に患者さんたちには考えていただきたいと思います。「仕事で当直しているんだから診てもらって当然だろ?」と、すごみをきかせるに至る患者さんもたくさんいますが、我々は翌日にはがっつり睡眠不足の状態であなたよりも重い病気を抱える患者さんたちをたくさん診療するのですから、もう少し配慮してもらえないでしょうか?個人的な経験では、救急外来でも本当に重篤な病気で受診した患者さんを診療したときには、むしろ医者冥利に尽きるといったやり甲斐というか高揚感を感じる一方で、不遜な態度でまったく緊急性のない状態で受診した患者さんを診療したときには、睡眠不足も相まって疲労感がとてつもなく増えるように感じていました。医師も、患者と同じ人間、医学を志す理性もあれば喜怒哀楽の感情によっても突き動かされる生き物なのです。