熱く楽しく挑戦する!

分子神経科学研究者、兼、麻酔科医、兼、ランナー、兼、作曲家 の随想録(ひとりごと)です。

肩書きや資格では偉くならない

 久々に、琴線に触れる記事を目にしました。

http://toyokeizai.net/articles/-/183646

 日本古来の美しき儒教精神のなかに、「父母、目上の者(上司)、年長者を敬いなさい」という考え方は
依然としてあるはずですし、あるべきだとも思います。しかし、一方で、「子ども、目下の者(部下)、年下の者には
敬意をもたなくてよい、軽んじてもよい」と唱えているとは到底考えられません。

 日本の人間関係には敬語という、独特で美しい言語体系が存在するがために、上と下の関係性がはっきりと意識出される
特徴があります。仁義礼智を踏まえた者同士であれば、おそらくこの世でもっとも美しく潔い関係となるのでしょうが、
いかんせん現代人など小人の集まりに過ぎない。ひとたび相手から礼儀と敬語をもって迎えられたならば、それを
よしと逆手に取って「つけあがる」状態になってしまう、そのようなケースが横行しているように見受けられます。

 あらゆる人間関係において、ひとはその相手を必ず見ています、そして評価しています。「信用できる人なのか?」、「優秀な人なのか?」「自分でリスクをとれる人なのか?責任感があるのか?」などなど。これが、たとえ部長であろうと、課長であろうと、係長であろうと、または平であろうと、新入社員であろうと。教授であろうと、准教授であろうと、助教であろうと、指導診療医であろうと、そして研修医であろうと。

 この、江口克彦さんのいうように、その人に対する評価というのは、役職やポジションに対してでは決してない。これまでの業績と、現在の仕事っぷりや情熱、そして一緒に仕事をしたいと思うかどうかを感じさせる「人となり」そのものです。確かに、これまでの努力の積み重ねがあったからこそ、現在の役職に就任することができたのかもしれない、そのことを誇りにすること自体はまったく否定されるべきものではありません。

 しかし、過去の業績という栄光の記録にしがみついて、現在の役職に甘んじている上司など、部下からすれば一発で見抜けてしまうものです。それは、現在の姿をみていれば明らかなもの。どれだけ本人が体裁を整えてかっこよく見せることができていたとしても、残念ながらそんなものはしばらく付き合っていれば簡単に見破られてしまいます。さらに、この上司が自分の役職をかさにしてものを言っているのか、それとも、ひとりの人間として、相手を尊重した上でものを言っているのか、これも残念ながら下の者には簡単に見抜かれています。私の尊敬する先生方は、誰一人として相手を軽んじるような態度はおとりになりません。どんな目下の者が相手であったとしても、同じひとりの人間として守るべき「人としての道」があるはずです。

 「いやー上司ともなると仕事が多くなって大変なんだよ」と、そうおっしゃりたくもなりましょう。しかし、先ほども述べたように、私は心から尊敬すべき先生方を存じ上げています。朝一番に職場に到着して我々若手の仕事をすべて把握しながら、我々のトレーニングのために裁量を許してくださり、不備があれば厳しく叱ってくれ、そしてピンチの際には最前線で力を貸してくれる。そんな素晴らしい上司の先生がいらっしゃいます。

 「能力をもった者には、それを正しく行使する責務がある。」ドラマ「白い巨塔」に登場した一節です。能力があるからこそ誰かに選ばれてその役職に就任されたのです。その役職を自らのプレゼンテーションに行使するのではなく、あくまで社会のなかであてがわれたひとつの役割に報いるというスタンスで、いっそのこと仕事されてはいかがでしょうか?

 そんなことを、将来の自分に対してもここで厳しく戒めておきたいと思います。