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分子神経科学研究者、兼、麻酔科医、兼、ランナー、兼、作曲家 の随想録(ひとりごと)です。

頭を悩ませることにはコストがかかる

 ひとに対する評価を完全に固定してものを語る人がいる、これまで多くのそのような人達に出会ってきた。

 得てして彼らは比較的閉鎖された環境においてドミナントな立場にあり、「見えないけれど見える圧力」をもっているように思われる。

 「あの者はどういう人間なのだろう?優秀なのか、不出来なのか、自分の味方なのか、あるいは敵なのか?」といった人に対する評価を決めるには、体力も時間も思考もかかる。教育の世界においては、親や教師が極端にこども愛するようなそぶりを見せたかと思えば、その直後に敵対的な態度を示すような場合、こどもは彼らがいったい自分にとって味方なのか敵なのかを決めることができず、精神的に追い詰められるという状況に陥ることがあるらしい、これを「ダブルバインド」という。少し本論から逸れたが、それだけ人に対する評価というのはコストがかかるものであり、ひとの精神衛生に大きな影響を及ぼすのだろう。

 「あの者はああいう人間だ」と一旦決めつけてしまえば、そりゃ楽だろう。悩まなければコストもかからないので、あえて評価を変更する必要もないので、この「決めつける」という行動を1の確率で取るという戦略こそが強支配戦略となる(ゲーム理論の考え方)。それこそ、外からの何らかのsupervisionが入らなければ、だが。

 「あの者はああいう人間だ」と決めつけられた者は、その「決めつけをした人間」の醸し出す圧力によってその環境を生きることになる、プラスの評価ならば追い風を受け、マイナスの評価ならば逆風に吹かれ続ける。その「決めつけをした人間」に対する評価は、それこそ、「あの者は、まさにああいう人間だ」と決めつけるようになる。その結果、お互いの評価を変更するかもしれない事態に陥ることになりうるような深いコミュニケーションを取ることはなくなり、均衡状態に落ち着く。ゲーム理論が導き出す、「偏見」が形成されるメカニズムも、このようなものであったと記憶している。

 私は思う。決めつける人間にだけはなりたくない、余計なコストがかかったとしても敢えてそのコストをとってでも、相手のことを知りたいと思う。そして、決めつけることしかできない人間のことを、私は一切尊敬したいと思わない。