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分子神経科学研究者、兼、麻酔科医、兼、ランナー、兼、作曲家 の随想録(ひとりごと)です。

医者は労働者なのか?

 「ブラック企業」という言葉がワイドショーを賑わせ、さらに一流企業の優秀な新入社員がわずか入社一年足らずで、過酷な労働に追い詰められて自殺するという大変痛ましい事件が起こった、近年の日本。政府も緊急的に経団連などに働きかけて「働き方改革」を打ち出し、連続勤務時間の制限や、勤務の間の休息時間(インターバル)の確保、さらに最終週の金曜日は午後3時で退社を目指し、勤務後の余暇を充実させるという取り組み(プレミアムフライデー)などが少しずつ実施されてきています。
 少し話は逸れますが、私の尊敬する西堀榮三郎さん(技術者、科学者、冒険家にして、日本初の南極越冬を成功させた)の言葉に、「肉体的な疲労は、精神的な構えひとつでどうにでもなる(人生は探検なり)」というものがあります。実際、53歳で南極越冬隊を率いたり、70歳にしてヒマラヤ遠征の隊長となり登頂を果たし、80代になっても自ら私費を投じて船を建造し南極と北極をつなぐ航路を縦断するという計画まで立てていました。また、もうひとりの好きな研究者に、血圧を調節する重要な分子であるレニンという物質を発見した、西村和雄さんの著書「生命の暗号」のなかには、「本当に心から好きなものに取り組んでいるうちは、たとえ48時間ぶっ通しであったとしてもまったく苦にならない」といったような言葉があったと記憶しています。実際に、これらの方々は、復興途上でろくに食料も飲物もままならない状況のなかで、懸命に努力を積み重ねて確かな業績を成し遂げていらしただけに、彼らの言葉には大変重いものを感じますし説得力を感じます。ですから、個人的な意見として、現代でよく取りざたされる「過剰労働」というのは、実は勤務時間の長さであったり仕事のきつさであったりすることが問題の本質ではないのかもしれないと思います。むしろ、仕事をする環境、特に上司や同僚がどのようにコミュニケーションを取り合ってお互いの労苦と努力を分かち合ったり叱咤激励しあうことができているか、そういった人間同士としての働きかけが変性してきてしまったのかもしれません。

 さて、先ほど述べた「働き方改革」と聞いて、医療業界で仕事をする私としてはまっさきに思いました、「医療業界はどうなのか?」と。「働き方改革」といいながら、医師や看護師をはじめとする医療業界でもこの議論は当然巻き起こるはずだろう、そうでなければ医療業界だけは置き去りにされ、あたかも「お前らは人を助ける立場なんだから、これまで通りそうやって人のために自己を犠牲にして働け」とでも言われているかのようです。そんななか、先日、政府主導の「働き方改革実行計画」を受けて日本医師会の会長が述べた、「医師は労働者ということは違和感があるという声をたくさん聞いた」という言葉には考えさせられるものがありました。
 私は常勤医師として4年間、病院に勤めました。立場的には研修医でしたので、どうしても「研修させていただく身分、教わる立場」というスタンスではありましたが、ざっくりいえば病院に雇われている労働者そのものだったと思います。しかも、研修医という立場上、「残業代ください」とか、「当直手当をください」と声高に言える雰囲気ではありませんでした、まさに旧態依然たる医療業界の独特な空気でしたが。ただ、どちらかといえば緊急手術や急患に対応する仕事であったため、緊急事態の経験を多く積んで実力を伸ばしたいと考えていた自分は、むしろ緊急の対応により残業が増えることはありがたいことだと思っていましたし、残業代が欲しいと思うこともありませんでした。そういう意味では、自分のなかでも「医師=権利意識にとらわれた労働者」という意識はあまり強くなく、まあほどほどの待遇があればいいかな、くらいの感覚で仕事をしていました。
 おそらく、世間一般の方々が医師に期待するところは、いわゆる聖職者に近い立場としての医師なのかもしれません。神父、教師、医師といった存在、だからこそ「先生」という尊称で人々は呼ぶのでしょう。だからこそ、1日フルで勤務時間を終えた後、「その日のうちに放置しておいたら生命に関わる重大な危険が及ぶかもしれない病気のみを診療する」という名目で24時間営業している救急外来でろくに眠ることも許されないのに多くの患者を診療した翌日も、ちゃんとした休息なしで外来やら病棟業務やら手術やらをこなさなければならない、このような明らかに異常な勤務形態がどこの病院でもまかり通っている、というよりも、「医者なら当然でしょう」というくらいの勢いで期待されているのだと思います。病院における当直業務とは、労働基準法においては、簡単にいえば「一応緊急のために勤務させる業態ではあるけど、基本的にほとんど仕事があるわけじゃないから、翌日仕事させても大丈夫でしょ?」くらいの認識によって例外的に認められている業務です。しかし、その実態は上記の通り、3日前からの風邪症状だったり、インフルエンザかもしれないから念のため検査を受けたい、だとか、ひどいときには日中の外来には仕事でいけないから薬をもらいにきた、と当然の権利のごとく受診する患者など、主旨に反する多くの患者を診療している、そして病院に勤務する者なら誰でもこの現状を知っているはずです。しかし、その実態を知りながらも放置し続けてきた病院の経営者、そして厚生労働省の役人達がいたのです。そう、「医師は労働者じゃない、聖職者なら当然でしょう」という信念が根底にあるからでしょう。確かに、当直医を翌日完全に休ませることができる人的余裕のある病院はほとんどないでしょうし、その分の医師を補充するとすれば病院経営を圧迫してしまう。法的な規制を強めることも、医師不足の地域ではおそらく医療崩壊が生じるかもしれないほどの、現実的に不可能に近いものなのかもしれませんが、このまま過労に病んでいく医療者が放置されるのは明らかに理不尽だと思います。
 そして、一方では、医師が医療訴訟などで被告となった際に議論される、「債務不履行」という言葉。業務のなかで、現状の医療水準に照らして本来期待されるはずの医療行為が果たされない、ということですが、これはまさしく労働者を扱う際に使用される概念です。もともと、古代ギリシャの医療の父と呼ばれるヒポクラテスの時代では、医師は患者の心情を慮って、敢えて真実を伝えずに患者のためによかれと信じることを独断で行うことが善とされていました、これをパターナリズムと言います。聖職者に近い医師という意味では、むしろこのパターナリズムのほうがふさわしいように思われます。しかし、現在においては、医師が患者の心情を慮って真実を隠しながら独断で医療行為を行うことはむしろ悪であり、その状況において何らかの合併症や患者の経過の悪化があったときには、「十分な説明もなく勝手な医療行為を行った、これは債務不履行である」として敗訴のリスクとなります。現在では、患者やその家族に患者の病状と、それに対する治療方針や予後についての十分な説明を行ったうえで(インフォームド・コンセント)、患者が自ら治療方針を決定する、というプロセスが是とされています。この意味では、医師は労働者として、顧客である患者と契約関係を結ぶという状態になっていると言ってよいでしょう。
 つまり、医師の労働環境においては「医師は労働者ではない」というように考えられる一方で、医療行為を行う上では「医師は労働者としてきちんとした契約関係を結べ」と、二枚舌をもって扱われているのです。これはひいき目をやめたとしても、医師にとってあまりに過酷な状況です。確かに、社会において医師には大きな責務を期待されていることは間違いありません、医師は私利私欲のために働くのではなく、社会インフラの一部分を担う存在として世間に奉仕することが望まれているのだと思います。しかし、もしそうであるならば、患者と同じ人間である医師が健康で充実した生活をすることで継続してよりよい医療を提供することを可能にするために、医師をはじめとする医療者の労働環境を社会全体で見直す必要があるのではないでしょうか。救急外来の利用についても、真剣に患者さんたちには考えていただきたいと思います。「仕事で当直しているんだから診てもらって当然だろ?」と、すごみをきかせるに至る患者さんもたくさんいますが、我々は翌日にはがっつり睡眠不足の状態であなたよりも重い病気を抱える患者さんたちをたくさん診療するのですから、もう少し配慮してもらえないでしょうか?個人的な経験では、救急外来でも本当に重篤な病気で受診した患者さんを診療したときには、むしろ医者冥利に尽きるといったやり甲斐というか高揚感を感じる一方で、不遜な態度でまったく緊急性のない状態で受診した患者さんを診療したときには、睡眠不足も相まって疲労感がとてつもなく増えるように感じていました。医師も、患者と同じ人間、医学を志す理性もあれば喜怒哀楽の感情によっても突き動かされる生き物なのです。