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分子神経科学研究者、兼、麻酔科医、兼、ランナー、兼、作曲家 の随想録(ひとりごと)です。

阿倍政府を許してはならない

私はかつて、自民党支持派でした。私の住所はまさしく菅官房長官の選挙区で、かれの選挙事務所は私の住居から近くにあります。小泉政権における郵政民営化をめぐる、いわゆる郵政解散総選挙の際、私は郵政民営化賛成を訴える菅をこころよく支援しました。また、阿倍が病状を理由に選挙から敵前逃亡して民主党に大敗した際には苦い思いをし、さらに東日本大震災福島原発事故の後の後手の対応を目の当たりにしたとき、自民党復権を心から願いました。

時は巡って、2020年。長期政権となり、数々の阿倍にまつわる隠蔽、改ざん、廃棄といった問題が噴出してきている昨今。もはや阿倍政権は腐敗してしまっていると言わざるを得ません、優秀な官僚(事務方)は、おそらく人事権を内閣府に掌握されている以上、義にのっとった行動をとることができず、阿倍の意向にのっとって行動せざるをえない状況に陥っています。

 

もう、私は阿倍政権を認めるわけにはいきません。私は、個人的には自衛隊憲法明期化を否定しませんが、これ以上安倍政権の長期化をのさばらせることは許されない。私は断固として、阿倍政権の長期化を許容しません。優秀な霞ヶ関の官僚を、これ以上、その優秀な能力を無駄遣いさせることは許さない。

桜をみる会、森友学園加計学園の問題。問題自体の追及自体は本当にくだらない。予算編成、感染症問題、エネルギー問題、税制問題などの問題からすればいたってしょうもないことです。しかし、神は細部に宿る、という言葉が示すように、表面に現れたしょうもない問題についてさえも、そこに政府の対応に問題があるとするならば、その問題の本質を追及し、それに対して政府がいかに真摯に対応するのか、それこそに政府の本質が現れると思います。野党による阿倍政府への追及は一見してくだらないものに映りますが、私はこの政府の対応にうつるかれらの本質を垣間見て我々国民が政府を評価する絶好の機会と思って、今後も国会を注視していこうと思います。

症例記録 67歳女性 突然発症の後頚部痛

67歳女性

既往:みぎ足関節の骨折に対して手術歴、その他加療中の問題なし

内服:なし

現病歴:夜、自宅内で起立した瞬間に突然の後頚部痛を自覚、その後両肩の疼痛と両上下肢のまひを自覚したため救急要請。救急隊到着時、血圧が250台と異常高値を認めていた。疼痛は頚部から胸部のほうへ移動した後、疼痛は頚部に限局した。

当院搬送後は両上肢のまひ症状はほぼ消失し血圧も150-170台であったが、後頚部痛は残存しており、運動痛および他動痛の訴えは強かった。

頭部CTでは明らかな頭蓋内粗大病変は認めず、頚部CTでも頚椎のアライメントに異常を認めなかった。また、病歴上大動脈解離および椎骨動脈解離を否定できないため造影CTを施行するも解離は認められず、外頚動脈周囲に石灰化を認めるのみであった。

一方、頚部CTの矢状断では頚髄の背側にisodensity spaceを認め、水平断ではspaceは両側へ左右差なく広がっており、C2-Th4レベルにまでspaceが広がっていた。そこで、頚部MRIを施行したところ、T1,T2においてC2レベルを最厚とする血腫を認めたため、頚髄硬膜外血腫と診断した。

上下肢の神経症状が改善傾向であったため血圧と疼痛管理を目的として保存的に入院加療を開始。A-lineを挿入し、ニカルジピンと鎮痛薬で血圧を130 mmHg以下にコントロールしつつ点滴および降圧薬処方、さらに頚椎カラー装着による保存を行い、入院7日目に退院とした。

頚髄硬膜外血腫は文献によれば10万人に0.1人の発症率という希有な症例であり、今回のように突然の頚部痛から肩への放散痛や神経症状が続いていく、というのが特徴的である。しかし、血腫の広がり方の左右差や血腫による圧迫の様式によっては片側にのみ症状が生まれることがあるため、脳梗塞や脊髄梗塞などとの鑑別が重要となる。さらに、血腫の広がり方によっては胸背部痛などをもたらす可能性もあるため、大動脈解離との鑑別が極めて重要となる。

神経症状が増悪するようであれば、緊急的(ゴールデンタイムは8時間以内)な整形外科的除圧術が必要となるため、emergency baseの疾患としておさえておくべき疾患である。

発症の誘因としては外傷や抗凝固療法中、さらに動静脈瘻の存在や動脈出血などが挙げられるようだが、今回のような特発性のものも多いという。特発性のものは硬膜外静脈叢の破綻によると考えられているようだ。頚髄への圧迫の程度によっては致死的となる危険性があり、さらに脳梗塞と誤ってtPAなどを施行してしまうと致死的になりうるため、要注意の疾患と考えるべきである。

開腹下腹部手術における、自然気道下でのCSEAによる麻酔管理の記録

83歳 女性、148 cm, 37 kg。右結腸切除術に対する麻酔管理を行った。

術前の合併症としては、

①Hb 8.2の進行性の貧血

②高血圧の既往

③重度の混合性換気障害(VC 0.9 L, FEV 1.0% 0.3 (1秒量 0.9 L)

もともとのADLは酸素投与なくてもSpO2は問題なく、ほとんど歩かないが自宅内の平地は何とか自力で歩けており、食事とトイレも自立していた。身体診察上、胸郭はCOPD-like lungの印象を受け、さらに会話の最中には息継ぎが必要な印象もあった。

本人とご家族には、「呼吸障害があり全身麻酔に必要な気道確保をしてしまうと、術後の呼吸器系への負荷のため人工呼吸器からの離脱が難しくなる恐れがあるので、自然気道または簡易的な気道確保のみで自発呼吸下で手術を受けてもらう予定であることを説明した。ただし、万が一に備えて全身麻酔に切り替えることもあることをお話した。

 

Th12/L1に硬膜外カテーテルを挿入し、1%リドカイン 1.5ml1でtest doseを行ったあと、L3/4で等比重マーカイン2 ml + フェンタニル 10 µgをくも膜下投与。その後、cold testでTh3までのhypanesthesiaを得たうえでプレセデックスを酸素投与下に開始した。

DEX 0.7γの平衡相でも少し覚醒していたため、プロポフォール20 mg ivで入眠を十分得つつ、呼吸抑制に対してはマスク換気でSIMV+PS管理。ある程度の入眠が得られたところで手術開始、頃合いをみてリドカインで表面麻酔をした後、橈骨動脈にAラインを確保した。

時折、ムニャムニャいいながら不穏がちな印象となったため、その都度プロポフォール20 mg ivで対応した。また、プレセデックス 0.7γでは結構気道閉塞することがみられたため、経口エアウェイを挿入して20-30回程度の呼吸を保った。術中の血液ガスでも、PCO2の上昇はなく、PO2も213 mmHg程度と十分な酸素化を得た。

手術上、外科の先生のお話では筋弛緩は十分であり、大きな支障はきたすことがなかった。2時間程度で終了。終了後、プレセデックスを停止し、完全に熟睡した状態でICUへ入室。約1時間後に覚醒を得て、若干不穏な印象はあったものの気道や呼吸、疼痛に至るまでトラブルは認めなかった。もともと通過障害はなく、術前から術後に至るまで胃管の挿入はなかったが悪心・嘔吐は一切認めなかった、もちろん術中は吸引の準備をしていた。

今回、挿管はおろかラリンジアルマスクも行わずに自然気道のままで問題なく管理することができた。ラリンジアルマスクを使用しなかったのは、マスク内の死腔の分による換気効率の低下を防ぎたかったわけであるが、万が一手術範囲が胃や肝臓(横隔膜への刺激が避けられない状態)に及んだ場合には、少なくともラリンジアルマスクは用いる必要があったであろう。

いずれにせよ、今回、自然気道での下腹部開腹手術を管理することを完遂することができた、貴重な症例を経験した。

Story-driven は危ない

 研究には2種類ある。

①Story-driven research

②Data-driven research

の二つである。

①Story-driven research(物語ありきの研究)とは、「AはBである」という仮説が正しいはずだ、と信じ切って、それにそぐう実験結果を積み重ねること。

一方、②Data-driven research(実験データありきの研究)とは、「こういう実験データが積み重なったので、このデータからAはBなのか?という次の命題が生まれ、この問いに対してデータをさらに積み重ねていくこと。

 

 ①の「AはBである」仮説が絶対に正しいとは限らない。しかし、このresearchにおいて、「AはBではないかもしれない」というデータは、「間違い、または実験ミス」と評価される。よって、「AはBである、っぽいデータを出してこい」ということが要求課題となる。さらにいえば、「AはBである」という仮説以外の「CはDかもしれない」といったスピンオフのごとき新たな仮説を相手にすることもない、「余計なことはやるな」の一喝をもってひとつのアイデアの種は摘み取られる。

 一方、②のresearchには、どんなデータが出たとしても、そのデータが正しいのか誤りなのかは、その単発的なデータそのものが評価されるものではない。あえていえば、「実験方法が正しいのかどうか」というまさに”科学的な”妥当性のみが議論される。ポジティブコントロールとネガティブコントロールという、その実験系が正しく行われていたのかどうかを推測することができるのは、このコントロール実験をいかに丁寧に行い、評価できるかである。そのためには、実験データを吟味することができることが大前提であり、実験という科学の現場に足繁く通う経験こそが重要なのだろう。

 「実験のことはわからないけど、アイデアだけはある」などということはあり得ない。アイデアは現場でこそ生み出される、そう信じたい。

頭を悩ませることにはコストがかかる

 ひとに対する評価を完全に固定してものを語る人がいる、これまで多くのそのような人達に出会ってきた。

 得てして彼らは比較的閉鎖された環境においてドミナントな立場にあり、「見えないけれど見える圧力」をもっているように思われる。

 「あの者はどういう人間なのだろう?優秀なのか、不出来なのか、自分の味方なのか、あるいは敵なのか?」といった人に対する評価を決めるには、体力も時間も思考もかかる。教育の世界においては、親や教師が極端にこども愛するようなそぶりを見せたかと思えば、その直後に敵対的な態度を示すような場合、こどもは彼らがいったい自分にとって味方なのか敵なのかを決めることができず、精神的に追い詰められるという状況に陥ることがあるらしい、これを「ダブルバインド」という。少し本論から逸れたが、それだけ人に対する評価というのはコストがかかるものであり、ひとの精神衛生に大きな影響を及ぼすのだろう。

 「あの者はああいう人間だ」と一旦決めつけてしまえば、そりゃ楽だろう。悩まなければコストもかからないので、あえて評価を変更する必要もないので、この「決めつける」という行動を1の確率で取るという戦略こそが強支配戦略となる(ゲーム理論の考え方)。それこそ、外からの何らかのsupervisionが入らなければ、だが。

 「あの者はああいう人間だ」と決めつけられた者は、その「決めつけをした人間」の醸し出す圧力によってその環境を生きることになる、プラスの評価ならば追い風を受け、マイナスの評価ならば逆風に吹かれ続ける。その「決めつけをした人間」に対する評価は、それこそ、「あの者は、まさにああいう人間だ」と決めつけるようになる。その結果、お互いの評価を変更するかもしれない事態に陥ることになりうるような深いコミュニケーションを取ることはなくなり、均衡状態に落ち着く。ゲーム理論が導き出す、「偏見」が形成されるメカニズムも、このようなものであったと記憶している。

 私は思う。決めつける人間にだけはなりたくない、余計なコストがかかったとしても敢えてそのコストをとってでも、相手のことを知りたいと思う。そして、決めつけることしかできない人間のことを、私は一切尊敬したいと思わない。

流す星は、流れ星ではない

 まさに現在ニュースで取り上げられている、日本初ベンチャーによる「人工流れ星」放射器を搭載した人工衛星打ち上げ。
このベンチャー企業のリーダーは、東大大学院で宇宙工学を修めた方だという。彼女が抱き続けた志がようやく実現する直前に
まで到達した、そのことは本当に素晴らしいと思うし、尊敬申し上げたいと思う。
 一方で、人工流れ星に対してあまり魅力を感じるところがない、もう少しいえば、流れ星の一期一会めいたロマンを
奪わないでほしい、とさえ思ってしまう自分がいる。
 人工流れ星は、要は、人間が意図したタイミングで好きな色、好きなフォーメーション、好きなロケーションに、いわば天空の花火のごとく
流れ星を地上の民衆にお送りすることができる、ビジネスのためのものである。想像するに、それは美しく、そしてオリンピックなどの
一大イベントにおいては素晴らしい魅力となるであろう。
 一方で、自然に訪れる「一瞬の刹那」とも言える流れ星に出会えたときの感動は比類ものだ。特に、アウトドアなどで漆黒の闇のなかで
偶然夜空を走る流れ星を捉えたときには、この広い世界において自分の小ささを感じながら、「生きていて本当によかった」と心から思えるほどの
強い感動を覚える。なお、「一瞬の刹那」ではあるものの、漆黒の闇のなかで観る夜空には〜〜流星群などという洒落た名前などなくても、実に
多くの流星群に遭遇することができる、もっとも、それが人工衛星国際宇宙ステーションなどに由来する人工の宇宙ゴミである可能性は否定できないが。

 それでも、人により意図された美しいものと、大自然が生み出す美しいもの、理性的には同じようなできばえであったとしても、恐らく
人が感動を受ける器官というか受け取る感覚組織が決定的に異なるように思えてしまう。それは、コンピューター上の機械的な演奏がいくら
完璧であったとしても、オーケストラが織りなすアコースティックでの生演奏の、少し音ずれやアドリブを湛えた音楽が与える情感を超えることは
ないことと同じように思える。
 少なくとも、私は流れ星をみたいのであって、流す星にはあまり興味を持つことができない。今後、私が遭遇した流れた星が、どうか誰かが流した星
ではないことを、これから夜空を見上げたときに願わなければならないことは、少し残念な時代になってしまうかもしれない。

林修先生の50文字PR

 たまたま林修先生の番組を拝見する機会がありました。実にわかりやすく、軽快で、面白い。私が求めるインテリジェンスのなかのユーモアは、まさに林先生のそれ、そのもの。

 番組で自己PR50文字というコーナーがあった。自分ではどうなるだろうか?

麻酔科の手を持ち、理学への探究心を抱き続け、熱い経世済民の心で義のある世を目指す。

こんな感じでしょうか?
ちなみに、私が尊敬してやまない麻酔科の先輩は、麻酔科医のことを、「外科医の手を持ち、内科医の頭を持つ医者」とおっしゃっていました、自分はそのレベルには達することができているのか、非常に悩ましい…。