流す星は、流れ星ではない
まさに現在ニュースで取り上げられている、日本初ベンチャーによる「人工流れ星」放射器を搭載した人工衛星打ち上げ。
このベンチャー企業のリーダーは、東大大学院で宇宙工学を修めた方だという。彼女が抱き続けた志がようやく実現する直前に
まで到達した、そのことは本当に素晴らしいと思うし、尊敬申し上げたいと思う。
一方で、人工流れ星に対してあまり魅力を感じるところがない、もう少しいえば、流れ星の一期一会めいたロマンを
奪わないでほしい、とさえ思ってしまう自分がいる。
人工流れ星は、要は、人間が意図したタイミングで好きな色、好きなフォーメーション、好きなロケーションに、いわば天空の花火のごとく
流れ星を地上の民衆にお送りすることができる、ビジネスのためのものである。想像するに、それは美しく、そしてオリンピックなどの
一大イベントにおいては素晴らしい魅力となるであろう。
一方で、自然に訪れる「一瞬の刹那」とも言える流れ星に出会えたときの感動は比類ものだ。特に、アウトドアなどで漆黒の闇のなかで
偶然夜空を走る流れ星を捉えたときには、この広い世界において自分の小ささを感じながら、「生きていて本当によかった」と心から思えるほどの
強い感動を覚える。なお、「一瞬の刹那」ではあるものの、漆黒の闇のなかで観る夜空には〜〜流星群などという洒落た名前などなくても、実に
多くの流星群に遭遇することができる、もっとも、それが人工衛星や国際宇宙ステーションなどに由来する人工の宇宙ゴミである可能性は否定できないが。
それでも、人により意図された美しいものと、大自然が生み出す美しいもの、理性的には同じようなできばえであったとしても、恐らく
人が感動を受ける器官というか受け取る感覚組織が決定的に異なるように思えてしまう。それは、コンピューター上の機械的な演奏がいくら
完璧であったとしても、オーケストラが織りなすアコースティックでの生演奏の、少し音ずれやアドリブを湛えた音楽が与える情感を超えることは
ないことと同じように思える。
少なくとも、私は流れ星をみたいのであって、流す星にはあまり興味を持つことができない。今後、私が遭遇した流れた星が、どうか誰かが流した星
ではないことを、これから夜空を見上げたときに願わなければならないことは、少し残念な時代になってしまうかもしれない。