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分子神経科学研究者、兼、麻酔科医、兼、ランナー、兼、作曲家 の随想録(ひとりごと)です。

死刑囚の反省とは

19世紀の中国で発生した洪秀全らによる太平天国の乱を現代社会で再現したかのような、日本の宗教団体による一連のテロ活動。その結末は、一部の残党と反教祖化した別の宗教法人の誕生、そして首謀者とされた数人の死刑執行となった。
死刑制度の是非が再び再燃しつつあるが、そのなかの根拠のひとつとして、「死刑囚はもう十分反省しているから、死刑執行は不要ではないか」というものが散見される。
反省しているから、死刑は不要?死刑制度とは、社会に規律を与えるためだけでなく、被害者感情も鑑みての制度だと私は認識している。反省ってそもそも何ですか?その人が反省できるようになったのは、死刑宣告を受けたからかもしれない、死期を悟れば人間、もはや先立つものも不要だし人生の執着に囚われることもない、あとは綺麗な状態でこの世を去る準備をすればよい。性善説に立てば、彼らも最終的には純粋な気持ちになることができる、それゆえ死刑囚のなかには遺産を全て自然災害の復興義援金として寄付した者もいるという。
では、彼らに「反省しているようだから、やはり死刑は撤回して、あと5年で保護観察にします」と処遇を変更させた場合、彼らが今の心持ちのままでいられるのか、こんなこと誰もわかるはずもない。いや、もし仮に保護観察処分となったにも関わらず、さらに何らかの犯罪をした場合、一体誰がその責任を取ることができるのか。この理由をもって死刑制度に反対した者全員が責任を取れるとでも言うのか?
そもそも、日本の法律においてはその犯罪者のことが憎くて忌々しいがために死刑執行を行うのではなかろう、憎むべきは罪であろう。犯罪者の心情は変わりうるかもしれないが、一度犯した罪は未来永劫消えない。本当に犯罪者が反省しているのであれば、死刑囚は命乞いをするのか?多くの無抵抗の市民を犠牲にしておいて、死刑囚として諦めがついたからこその「反省」に、何の同情の余地もない。
彼らの心情を慮ることをそこまで主張したいのであれば、彼らに死刑執行するのではなく、誇りのある死として切腹の機会を与えてはどうか?死刑執行となると、執行させられることになる担当者の精神的な負担と計り知れない。それこそ、死刑囚が執行者に与える最後の負の遺品である。かと言って、現代で斬首の上三条河原に晒し首というのも、現代にはフィットしないだろう。反省という人間らしさを示して綺麗な最期を遂げるという意味で、彼らに切腹の機会を与えることは議論の余地があるように思える。