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分子神経科学研究者、兼、麻酔科医、兼、ランナー、兼、作曲家 の随想録(ひとりごと)です。

小市民主義の台頭

 現在、月1回ではありますが地方の市中病院で救急医療をしている者として、強い危機感を感じています。端的に言えば、地域医療は近いうちに必ず崩壊し、多くの高齢の患者さんが医療過疎の現実と危険に曝される時代がやってくるでしょう。
 表面に見えてくるさまざまな原因があります。地域医療に携わる医師不足や医師自身の高齢化、看護師不足、高齢化と老老介護の世帯の増加など。高齢化社会にますます突入していく日本社会、いかんともしがたいこともあるのは確かです。
 しかし、医療者ー患者の双方の理解不足、意思疎通不足が生み出すロスも間違いなくあるはずです。その根源はどこから来たのか?私の思うに、「信頼の消失」、「自分のまわりさえよければいい、という”小市民主義”」の2点が大きいと考えます。
 「信頼の消失」:古き良き時代がすべて良いものだったとは言いません。しかし、昔のような「お医者様」と呼んでドクターを尊敬し、医師によるパターナリズムによって患者さんに対する医療の提供がなされていた時代には、医師に対して大きな信頼があった。しかし、これまでの医療過誤やら医療の不祥事によって医師に対する信頼が失われ、患者サイドは自らの権益が不届きな医療者に奪われまいと権利を主張するようになった。ある意味、医療者に対して対立構造を取るまでになり、何か不都合や不利益、場合によっては不可抗力として思えない不幸な事態、医療行為につきものの合併症などについても、同意書の説明項目に含まれていない合併症がひとつでも見つかったときには「その説明は受けていない」と逆に重箱の隅をつつく戦法を用いて訴訟の材料とするようになる。患者に権利主義が蔓延すれば当然、医療者は訴訟に巻き込まれないように自らの防御態勢を整えるようになる。緊急事態の場合、特に救急医療などで私も経験してきたが、本来ならば本人や家族に対する説明は簡略に切り上げてすぐにでも蘇生処置を急ぎたいという状況であっても、訴訟のリスクが大きく伴うだけに、蘇生に優先して何枚もある説明書と同意書についてひとつひとつ説明し、お互いの署名をすることになる。そして、以前ならば自らの危険を顧みずとも医師としての使命感によって患者のために尽くそうとしていたのが、余計なことには手を尽くすことなく、あくまでビジネスライクに対応するにとどめる。そうして、徐々にお互いの距離が生まれていく。やがて、意思疎通不足が生まれていく。
「自分のまわりさえよければいい、という"小市民主義"」:古来日本には、物理的な「個人的隔離、いわゆるプライバシー」ではなく、精神的な「プライバシー」というものがあった。その代表例のひとつは、日本家屋の大きな部屋のなかで間仕切りを置くだけでプライバシーを保つという分化である。日本人は、お互い様というもちつもたれつの関係のなかで日々の生活を支え合い、互いの合意と信頼のもとでそれぞれのプライバシーを守り合うことができていたのだと思われる。一方、欧米や大陸の世界は、収奪の応酬の歴史がそうさせるのか、物理的なプライバシーが保たれることを重視する。コンクリートやドアでひとつひとつの家屋や部屋が明確に隔別された西洋式の建築様式はまさにその象徴である。西洋人の私生活に対する考え方も、仕事が終わればすぐに私生活のモードに入り、仕事との切り離しが明確であったり、仕事の付き合いに後ろ髪を引かれるような感覚がなかったりというのは、悪い意味ではなく物理的なプライバシーが重視されてきた文化の象徴であろう。この西洋の感覚を、日本人は生活様式が西洋化するにつれて徐々に取り入れざるをえなかったのかもしれない。もちつもたれつの連帯が薄れて個人の物理的なプライバシーがそれぞれの世帯で広がっていくようになると、どうしても個人同士の意思疎通は薄くなり、徐々に他人との距離が生まれていく。距離ができることで互いの考えを伝え合い、話し合う機会が減っていくことで、もうこれ以上深入りする必要もない、とビジネスライクな関係がやがて均衡状態となっていく。

この”小市民主義”が現在の日本社会にこれほどrelevantなものになってしまった以上、現在の均衡状態を打破して次の均衡に遷移するのは相当の努力や時間や世の中の情勢の変化を待たねばならないでしょう。「自分さえよければそれでいい」というポリシーのみで生活する小市民主義者にとっては、他人に関わるストレスもなく、さらに他人から干渉を受ける煩わしさもなくなっているため、現状の均衡から動く必要など念頭にも及びません。一方、お互いに小市民主義を貫くことで世の中の多くの不経済や非効率、そして相互信頼の欠如を多数生み出すという本質を見抜いている人にとっても、本来ならば状況を打開すべく努力したいところなのにも関わらず、結局のところ小市民主義者の協力なくしてこの問題が打開されないことを痛感しているがために、その打開のための努力をしようとは思わなくなるのです。