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分子神経科学研究者、兼、麻酔科医、兼、ランナー、兼、作曲家 の随想録(ひとりごと)です。

試合に負けて勝負に勝つ

 私が医学生学生の時に実習していた臨床科の若い男性医師が話していたモットーです。その方は、奥さんとのやりとりに関して、いつも心に秘めていることばがこれだそうです。
 当時に私にとっては、奥さんをうまくいなすための方法なのだなあと面白おかしくとらえただけで終わりましたが、それ以降いろいろな経験をしているうちに、世の中においてこの考え方は非常に含蓄が深いものであると同時に、この境地にいるためにはなかなか深い懐が必要であることを感じるようになりました。
 現在の風潮では、お笑い番組や英語教育の重要性が取りざたされることが多い教育業界、また海外志向の浸透しつつあるビジネス業界にみられるように、とにかくものを言う方が優れているという前提があるように思います。内容はどうであれ、いかに素早くリアクションを取ることができるか、流暢に英会話ができるか、自分の主張を表現できるかどうか、これによってその人の能力が測られるような印象を受けます。
 この論理が、討論や喧嘩などでも強く流れているように感じられるのです。すなわち、言い争いのなかでいかに相手を言い負かすか、それによって強い口調で相手を論破した者が勝者、またはより正しい事を言っていると判断されがちです。

 しかし、果たしてこれは本当に正しいことなのでしょうか?

 もちろん、議論の内容にもよるのでしょうが、私には、むしろ相手をいかに言い負かすかばかりを考えている者に対して、一方でその人の心の動きを察した上で、その人に好きにものを言わせて満足感を与えたうえで話を聞き続けることができる、「言い負かされた人」のほうがより人間として成熟しているのではないか、と思えてならないのです。もちろん、何も考えておらず議論を展開することができない人は論外でありますが、そうでなくて、議論の前提に立つことができる人でこのような姿勢を保つことができる人が存在することは紛れもない事実です。テレビ番組の討論番組でも、ぎゃーぎゃーと他人の発言に聞き耳をまったくもたずにわめきちらす残念な発言者がいる一方で、真摯に彼らの発言を認めながら、穏やかな口調で鋭い発言をずばっと行う素晴らしい人がいます。その人の一声はぎゃーぎゃーわめく発言者の弁解によって一瞬うもれかけたような印象となりますが、討論の流れを理解する人にとっては、どちらが正しく優れているのかは一目瞭然に思えます。こういう人こそ、試合に負けて勝負に勝つことができる、素晴らしい度量の持ち主なのではないでしょうか。

 表向きとして表現に気後れすることがないこと自体ももちろん大切な人間の能力であることは間違いありませんが、やはり成熟させるべきは相手を受容することができる懐の深さと、深い思慮ではないかと私には思われます。小学校からの英会話教育が重要だとされてきていますが、コンピューターが話しているかのような、何の深みもない英会話ばかりを流暢にしている子供達が優秀だと取り上げられていることに奇妙な印象を受けるのは私だけでしょうか。誰でも同じようなことしか言えない流暢なスピーチよりも、たどたどしくも思慮と洞察に富んだスピーチのほうがずっと素晴らしいと思うのです。教育に携わる者に是非一度考えていただきたいことだと私は信じて、今後の人材教育に生かせたらよいと考えています。