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分子神経科学研究者、兼、麻酔科医、兼、ランナー、兼、作曲家 の随想録(ひとりごと)です。

死と身体

 医学書院から出版されている本、内田樹さんの著。

 内田さんの言論にはいつも「そうそう!それそれ、それだよ!」と関心というか、自分が
普段感じていることを言葉にしてさらっとまとめてくれるような印象があり、とても快く
読ませていただいています、といってもただ同質のものに出会ったような、味方探しの
ような感じではないですが。

 ちなみに、内田さんの「下流志向」というベストセラーについては以前にも
述べたかと思いますが(前のブログか?)、社会的な強さ弱さと、人間性としての
強さ弱さはまったく違うという私の持論を、社会における不平不満の公表という
手段によって強い立場を獲得することができるという内田さんの表現がまさに
言い表してくれていました。一読をお勧めします。

 さて、今回の死と身体。医学専門書の医学書院において、自分がはじめて読んだ
文系的な切り口。その中でも印象に残ったものをひとつ。

 今の学校教育、ならびに社会人としての仕事の出来について、すでに一定の
普遍性を獲得したともいえる、積極性や物怖じしない姿勢。確かに、授業の時には
積極的に手を挙げなさい、議論には自分の意見を堂々と述べなさい、自分の個性を
発揮しなさい、そんなことばかりが美徳ないし優れた能力として礼賛されてきている。

 しかし、著書によれば、それ一辺倒の教育がどこかで日本人の考え方を変容させつつ
あるという。もともと、日本にはやおよろずの神をあがめる日本神道とともに武士道が
脈々と受け継がれてきた。その中で、謙虚さは新渡戸稲造のgrace and dignityとともに
humilityとして武士道の根幹のひとつをなしてきた。

 人間誰しも、自分が頭で考えていることと、実際に声に出して言葉で発せられたことと
完全に一致する人間などいない。本当はもっと別のことを言いたかったのに、どうして
こんな言葉としてしか表現することができなかったのだろう、と言ったそばから反省
してしまうなんていうことはざらであろう。特に、大人になるまえの人間にとっては、
それが後悔としてひきずってしまうものとなり、だからこそもの申す前には言葉を
ためらったり口をもごもごしたりどもったりしてしまうものだ。大人になったとしても
発せられた言葉が自分の意を伝えないことばかりであるが、大人の反応というのは
「まあうまく言えなかったけどこんなものか」といった感じで軽く流すことができる。
こういった行動というのは、それこそ武士道におけるhumilityのなせるわざで、頭では
どうしても一言述べたくなってしまうというシーンにおいても、実際に発声を担当する身体
は「おいおい、ちょっと待て。大丈夫なのか?」というような感じでブレーキをかけよう
とする。そのため、表現型としては言葉が流暢に出てこなかったりどもってしまう。
「武士に二言なし」といったように、言葉は自分の分身としてこの世に一生はびこる
のだから、武士は自身の言葉に命を懸けたのだ、と養老孟司さんがどこかの本で
書いていた。

 つまり、学校教育を受けるような学生や、または会社での会議やプレゼンの場で
注目を浴びる新人社員にとっては、humilityが先行することが当然であり、授業で
手を挙げるのをためらったり、プレゼンの場でどもってしまうのは武士の子孫として
至極当然、むしろその証として讃えられるべきものなのかもしれない。

 それに対して、積極性を重視して教育として刷り込まれて育った人間はその後どうなった
のか。著書によれば、確かに物怖じせずに言葉を発する、意見を述べることができる
人間となったものの、みんなどこかで言っていることは同じようなもので、自分の
内から発せられたものではなく、どこかで拾ってきたアイデアのようなものばかりとなった
という。

 今自分が置かれている場がどういう状況なのか。普通は自分の脳がそれを一番わかっていて、
どのように行動すべきかは脳の判断が優先すべきだ、というのが現代社会の発想である。
しかし、著書によれば、実際には行動の優先権はそれを行う担当者である身体であるという。
ちなみに野生の動物は闘争か逃走、fight or flightの中に常にいるわけで、行動の指針の
基本は自律神経のアクセルとブレーキのコンビネーションが担っているのだと思われます。
人間も、危機一髪という瞬間には、野生動物と同じように自律神経と身体が自分の脳を占拠
してしまうようになるでしょう、頭が真っ白になるという奴です。これは真っ白なのではなくて、
身体にpriorityが移動しているのであり、身体の動くままに行動すればよいのです。
この感覚はスポーツやピアノを弾いているときに何となく感じることができるものです。

 ということで、極端に脳で生きている現代社会の中でも、身体を感じながら、そして
そんな身体を受け継がせてくださった我々の祖先のことを思いながら、日常を生きていく
のも決して悪くはないのではないのでしょうか。